伊達邦成(くにしげ)とともに有珠郡に入植し経理・財政などを担当した文官の一人に佐藤助三郎脩亮(しゅうすけ)という家臣がいた。
66歳という高齢で家族とともに開拓事業のために移住してきた彼は文人としても伊達家家中で名を馳せていたそうだ。
脩亮自身は高齢もあり1882年に故郷である亘理に戻るが、自らも和歌をたしなむ盟主邦成に命じられ地名にちなんだ和歌を二十首つくった。
どの歌も単に地名を詠んだだけではなく、開拓当時の風景や当時の人々の心情がつづられており非常に稀な開拓文学遺産となって今に残っている。
●消え残る 雪のうちより 咲出てちるをいそがぬ 梅の本つ枝
(現在の開拓記念館辺りにある歌碑。邦成公自身が居を構えることになる「梅本」の町名は、歌人でもある邦成公の命名であったのかもしれない)
●動ぎなき 岩根に深く 苔むしてなつともつきぬ 君がゆくすえ
(主君の繁栄を思って歌われた。ひとつは火の山有珠岳で、もうひとつは東山のいただきに立つ天狗岩。桔梗線と稀府通り線の交差する愛宕神社の前に建てられている。御神体にはカグツチノカミ(火の神といわれている)が祀られており、古くから火災を防ぐ神様として信仰されている。)
●世をおくる その営みに 網引きすとうすの浜辺の海士の呼び声
(「うすの浜辺」とは、現在の有珠町をさしたものではなく支配地となった「有珠郡の浜辺」であると思われる。また、「海士」は漁(すなどり)をする入、つまり漁師のことをいう。(浜丁」とは、現在の錦町一帯や大町をさしているが、当時、この地が直接海岸に面していたわけではないそうだ。)
など伊達市各所に歌碑は点在している。
詳しい場所はNPO法人だて観光協会https://www.date-kanko.jp/?page_id=309からマップ検索できる。